2014-02-10
『尚武重忠』の心
先の東京都知事選は不本意な結果に終わりましたが、建国記念の日(紀元節)を迎えるにあたり、危機の時代を乗り越えるためにも、神武天皇の大御心でもある「尚武」・「忠義」の大切さについて、今一度確認しておきたいと思います。
越前福井藩出身の偉大な先哲である橋本景岳(左内)先生は、安政三年(一八五六年)藩政抜擢採用にあたり、中根雪江宛ての手紙に以下の様に書き記しています。
「元来、我が国は外国と違って、革命という乱れた習わし、悪い風俗がないのでありますから、現在に至っても、直ちに神武天皇がこの国をお始めになられた際、子孫将来のために定められ、お遺しになられたところのものを、謹んで守られ維持されて、一向に差し支えのないことと存じます。但し、右に申しました通り、時代の移り変りというものがあり
ますから、神武天皇の御心に則るということが重要なのであって、実際に作成する制度については、いささかなりとも、時勢の変化に合わせた変更や補正がなくてはなりません。しからば、神武天皇が子孫将来のために定められ遺されたものとは何かといいますと、それは、人は忠義を重んじねばならない、士は武道を尚ばねばならないという二ヵ条に尽きるのでありまして、これこそ日本の国是でございます。
この二ヵ条は、正に日本の日本たる所以であり、シナの派手で軽々しく大げさなところ、西洋のかたくなではかどらず、物事に暗く鈍いところと比較すれば、全く雲泥の差がございます。神武天皇が遺されたものは、この『尚武重忠(しょうぶじゅうちゅう)』の四文字に限るといって間違いありません。第一に武道を重んじ給うたことは、御諡号を神武天皇と尊称し奉ることからも、明らかでございます。(中略)我が国では御歴代『草薙の御剣』を御相伝されております。この点からも、その尚武の思召が、ますます明らかに理解できるのであります。
上の御制度が、尚武を旨とするものであれば、自然下々には、忠を重んじる気風が興起するはずであります。我が国の歴史をひもとき、栄枯盛衰の跡をたどってみますと、その変遷はすべて各時代の武の道の盛衰と深く関係しております。(中略)この尚武の気風を
国是の根本とし、これを忠義と実直の精神で守り伝えてゆけば、風俗はますます情味篤く質朴なものとなり、武士道もますます盛んに興り、我が国の勢いは世界にぬきんでたものになること、遠くはございません。」(橋本左内『啓発録』 安政三年 四月二十六日中根雪江宛て手紙 現代語訳)
また久留米藩水天宮の神主で、禁門の変で戦い、天王山で自決した真木和泉守は、楠木正成公を尊び、毎年五月二十五日には必ず正成公を御祭りし、その忠節を慕っていました。真木和泉守が抱いていた日本中興の計画は、自決前に建白せられ宮中に達していました。
その内容の趣旨は、以下の通りです。
1. 神武天皇創業の御精神にかえること。
2. 旧弊を破ること。
3. 公候伯子男の五等の爵位を設けること。
4. 忠孝の人々を神に祭り、あるいは官位を贈られること。
5. 親兵を置かれること。
6. 土地人民の権を収めること。
7. 遷都あるべきこと。
8. 租税を軽くすること。
明治天皇は真木和泉守の献策を御採用になられ、これらをもとに維新が行われます。慶応三年(一八六七年)に、明治天皇は「王政復古の大号令」を発せられ、「諸事神武創業之始二原キ」、政治の御一新を図られます。また明治元年(一八六八年)には、「旧来の陋習を破り、天地の公道に基づく『五箇条の御誓文』」を出されました。南朝の忠臣楠木正成公を祀る湊川神社、護国の英霊を祀る靖国神社、神武天皇を祀る橿原神宮の御創建も明治天皇によるものです。
勤皇の志士や明治天皇の間には、神武天皇の大御心が息づいており、肇国の理想に立ち還ることで、明治維新は成し遂げられました。今日生きるわれわれもわが国の神話と国史の歩みに学び、「尚武重忠」の心を大切にして、より良い国創りを目指していきたいものです。
柴田
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