2014-04-20
「がんばろう!石巻」つづき
大川小学校は石巻市街地から車で20分程内陸へは入った北上川の上流のそばにありました。
学校のほかには何もなくて、どうしてこんなところに学校があるのかなと思いました。
周りには元々集落が有ってそこから学校に子供たちが通っていたのでした。
後で慰霊碑に刻まれていた写真を見て分かったのですが、それを見ていると子供たちが楽しげに通っている様子が
目に浮かぶようです。
何故なら瓦礫と化した校舎を見ても、こんな田舎にしてはオシャレな作りなのです。
きっと自慢の学校だった事でしょうね!
しかし今私の目の前にある学校は壁が剥がれ、渡り廊下はねじ曲がり、床板はめくれ、
窓ガラスがなくなった窓に無惨にも残っているカーテンだけが風に揺れていました。
慰霊碑が建てられている所が校庭と判ったときには足を置くのが躊躇われ、
よく見ると砂の中に木切れやビニール片が埋まっているのです。子供たちの悲しみが埋まっているかのようでした。
校舎を背にして振り返ると杉山がありました。どうしてこの山を登らなかったのか。
と思わず声を出してしまいました。一緒に居た友達が、
「一時間も校庭に居たのに誰一人教師が子供を連れて山へ逃げようとしなかったのよ。」
「津波がここには来たことがなくて、危機感がなかったのね。
それに、校長が自分の子供の卒業式に行く為に休みだったんだって。」
最近高校教師が自分の子供の入学式に行って学校を休んだ事がニュースになっていましたが、
校長はまさか津波が来るとは思って無かったでしょうがー。
とにかくここに来て思った事は、危機管理が一人一人に出来てなかった事が一番の原因だと思いました。
子供たちを守り指導するという意識が教師に欠けていたのではないでしょうか。
正に今の日本人のそのままですね。自分を、自分の子供を、家族を、
そして国家を守るのは大人の義務であり責任ではないでしょうか。
それを教えていくことが教育ではないでしょうか。
慰霊碑にお線香を手向け、手を合わせて祭壇に目をやるとジュースが供えてありました。
「怖かったねー。もうこんな事起こさないようにするからね。」
とメモが添えられていました。
校舎の横に流れる今は穏やかになっている
美しい北上川を眺め、友人と「北上夜曲」を歌いながら帰途に就きました。w 崩田和美
学校のほかには何もなくて、どうしてこんなところに学校があるのかなと思いました。
周りには元々集落が有ってそこから学校に子供たちが通っていたのでした。
後で慰霊碑に刻まれていた写真を見て分かったのですが、それを見ていると子供たちが楽しげに通っている様子が
目に浮かぶようです。
何故なら瓦礫と化した校舎を見ても、こんな田舎にしてはオシャレな作りなのです。
きっと自慢の学校だった事でしょうね!
しかし今私の目の前にある学校は壁が剥がれ、渡り廊下はねじ曲がり、床板はめくれ、
窓ガラスがなくなった窓に無惨にも残っているカーテンだけが風に揺れていました。
慰霊碑が建てられている所が校庭と判ったときには足を置くのが躊躇われ、
よく見ると砂の中に木切れやビニール片が埋まっているのです。子供たちの悲しみが埋まっているかのようでした。
校舎を背にして振り返ると杉山がありました。どうしてこの山を登らなかったのか。
と思わず声を出してしまいました。一緒に居た友達が、
「一時間も校庭に居たのに誰一人教師が子供を連れて山へ逃げようとしなかったのよ。」
「津波がここには来たことがなくて、危機感がなかったのね。
それに、校長が自分の子供の卒業式に行く為に休みだったんだって。」
最近高校教師が自分の子供の入学式に行って学校を休んだ事がニュースになっていましたが、
校長はまさか津波が来るとは思って無かったでしょうがー。
とにかくここに来て思った事は、危機管理が一人一人に出来てなかった事が一番の原因だと思いました。
子供たちを守り指導するという意識が教師に欠けていたのではないでしょうか。
正に今の日本人のそのままですね。自分を、自分の子供を、家族を、
そして国家を守るのは大人の義務であり責任ではないでしょうか。
それを教えていくことが教育ではないでしょうか。
慰霊碑にお線香を手向け、手を合わせて祭壇に目をやるとジュースが供えてありました。
「怖かったねー。もうこんな事起こさないようにするからね。」
とメモが添えられていました。
校舎の横に流れる今は穏やかになっている
美しい北上川を眺め、友人と「北上夜曲」を歌いながら帰途に就きました。w 崩田和美
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