2014-03-03
桃の節句(雛祭)
三月三日は、桃の節句(雛祭)です。桃の節句は、上巳(じょうし・三月上旬の巳の日)といい、奇数を(三・五・九)を好む支那から伝わった五節句の一つです。五節句とは、人日(じんじつ・一月七日)・上巳・端午(たんご・五月五日)・七夕(たなばた・七月七日)・重陽(ちょうよう・九月九日)のことです。わが国の「大宝律令」(七〇一年)には、季節の節目の祝祭日である「節日(せつじつ)」として定められていました。さらに江戸時代なると、幕府が「式日」として定められたこともあり、農村や都市で盛んに祝われるようになりました。
桃の節句では、各家々で雛人形、桃の花を飾り、白酒(桃花酒)・菱餅(草餅)などを供えて、女の子の健やかな成長を祈ります。
桃は、支那では古くから邪気を祓い不老長寿を与える植物とされ、桃で作られた弓矢を射ることは悪鬼除けになるとされていました。わが国でも同様に、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉(よみ)の国から逃げ還るときに、黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に生っていた桃の実を三つ取ってなげ、黄泉死神(よもつしにがみ)を退散させました。そして伊邪那岐命は自分を助けたように、葦原中國(あしはらなかつくに)の人々が苦しんでいるときに助けてほしいということで、桃に意富加牟豆美命(大神実命・おおかむづみのみこと)という名が与えられたということが『古事記』に記されています。桃から生まれた男子が鬼退治をする『桃太郎』の昔話も有名ですね。このように桃は邪気を払う生命力旺盛な植物として大切にされてきました。
旧暦三月三日は桃の花も満開の頃で、花粉などが飛び散り病気になりやすい時期でした。そこで、支那やわが国では、水辺に出て汚れを祓い流す風習がありました。とくにわが国では、古くから無意識につく心身の罪穢を払うために、紙で人形(形代)を作って、それに息を吹きかけ汚れを移して水に流しました。平安時代になると、貴族の子女の間で、ままごと遊びに「比々奈(ひひな・雛人形)」も作られ、それを笹舟に流すことが、「曲水の宴」とともに行われるようになりました。上巳は禊祓の行事なのです。
上巳はもともと男女の別なくおこなっていましたが、江戸時代になって女子の「人形遊び」と「節句の儀式」が結びつき全国に広まり、とくに元禄あたりから華麗な雛壇も現れると、豪華な雛人形は女子に属するものとされ、女子の節句という意味合いが強くなりました。幕末には今日の様な内裏雛が完成しました。
ちなみに内裏雛の最上段には、左側(むかって右)に男雛、右側(むかって左)に女雛を飾るのが、本来の姿でした。しかし、幕末から明治時代にかけての「西洋化」の流れをうけて、右手に剣を持って戦い、左手に婦女を抱えて守った西洋騎士の姿の影響から、right(右=正義)が優位とされ、男性が右側(むかって左)、女性が左側(むかって右)に立つようになったといわれています。
桃の節句(雛祭)を通して、お子さんの健やか成長を祝うとともに、宮中行事に根差した日本の伝統文化に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。
柴田
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