2015-08-09
1036名の特攻隊員の遺影を探して全国行脚された板津忠正さん
産経新聞8月1日特殊・特攻の記事に、知覧の特攻平和会館初代館長の板津忠正さんのことが掲載されいました。
私は知覧の平和会館を訪ねた折、若い特攻隊員の遺書や笑顔の写真に接し、涙が止まりませんでした。
その遺書や写真を生き延びられた板津忠正さんが、自費で集められた事を知り、感嘆すると同時に、国のために命を捧げられた英霊のために政府はなぜ動かないのか。遺骨収集も然りです。激戦地での遺骨収集も70年経った今もなお多くの遺骨が残されていることに、悲憤を感じます。政治家は個々の失言を取り上げ凶弾に時間を費やすことなく、もっと大切な事を進めるべきだと思います。
板津忠正さんは特攻に志願して、二度も出撃命令を受けながら、エンジントラブルや天候が悪く、いづれも出撃が中止され、終戦を迎えられました。
板津さんは「国のため、肉親のため死ねる」と出撃できる事に感激していたにもかかわらず、生き延びてしまった。同期の特攻隊員たちと「靖国神社の鳥居の下で待ち合わせてから入ろう」と約束されていました。それなのに、自分だけが生き延びてしまったと悔やまれて、呵責に負い詰められていました。その時知覧で食堂を営み、特攻隊員を見送り続けた鳥浜トメさんに
「あなたが生かされたのは,何か意味あって生かされたんだよ」と言われ、生きる事の使命感を憶えられたのです。
そのうち世間の風潮が特攻隊に対して『犬死だった』『無駄死にだった』と偏見の言葉を聞くようになり、中には『殴られるのが嫌で志願した』と特攻隊員の心と死を冒涜するようなことを平気で言う人もいたりして、許せない気持ちになられたのでした。
「特攻隊の死は無駄ではなかった。風化させてはいけない。後世に伝えなけれいけない。」との強い思いから、仕事の傍ら、戦没者名簿を手に、全国の遺族に特攻隊の真実を伝えながら遺品や遺書、遺影を集めて、一軒一軒を探して廻られました。
平和会館が建設された昭和59年には1036名のうち、まだ384人の遺影が見つかっていなかったそうです。その後も特攻隊員の御霊に押されるようにして、384名の遺族を捜し求めて、ようやく1036名全員の遺影をそろえることが出来たのです。終戦から四九年が経っていました。板津さんの涙ぐましいご努力、執念、使命感の賜物だったと思われます。どんなにか、ご苦労が実り、ほっとされた事でしょう。板津さんのような方が居られて、特攻隊の方達も浮かばれたことでしょう。
支那や韓国に虚偽の報道に毅然として、真実を語り反論することなく隣国に気兼ねして来た政府、隣国を応援するような報道をしてきたメディアのために、日本は貶められているのです。国際的にも誤解され負目を負わされている状態の今日を思うとき、先人達に申し訳ない気持ちで一杯です。命を掛けて国を守りひいてはアジアの国々を独立へと導いた先人達の功績を決して忘れることなく、感謝し、後世に伝えていかければと改めて決意いたしました。
今日の日本の繁栄、平和は英霊のお陰であることを肝に銘じ、後生に伝え、先人達が命を掛けて守ってくれた伝統ある素晴らしい国日本が、永遠に存続するように、今こそ叡智を極めるべきと考えます。
坪田陽子
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