2014-04-29
舛添都知事が北京を訪問
26年4月27日の産経新聞によると、舛添都知事が北京を訪問した。その折記者会見を開いた。汪洋副首相が安倍晋三首相の靖国神社参拝を批判し「日中の協力関係を阻害するような動きを日本の政治家は慎まなければいけない」と語ったという。また24日に会談した中日友好協会会長の唐家璇元国務委員も安倍政権に厳しい評価を下していたという。ところが、舛添知事は反論することなく、「機会がれば安倍首相に伝える」とだけ言ったという。日本人として情けなく歯がゆくてなりません。舛添知事は日本の政治家として、そこで毅然として、安倍首相は国の為命をささげた英霊の慰霊の為に参拝したのだ。日本国の首相として当然のことだ。しかも首相は参拝に際して「恒久平和への誓」と内外に発表している。批判されるのは心外だ」と言明すべきだと思うのである。
日本の政治家達よ。何卒日本の将来の為に毅然とした外交をして欲しいと切に願うものである。 坪田
日本の政治家達よ。何卒日本の将来の為に毅然とした外交をして欲しいと切に願うものである。 坪田
スポンサーサイト
2014-04-20
「がんばろう!石巻」つづき
大川小学校は石巻市街地から車で20分程内陸へは入った北上川の上流のそばにありました。
学校のほかには何もなくて、どうしてこんなところに学校があるのかなと思いました。
周りには元々集落が有ってそこから学校に子供たちが通っていたのでした。
後で慰霊碑に刻まれていた写真を見て分かったのですが、それを見ていると子供たちが楽しげに通っている様子が
目に浮かぶようです。
何故なら瓦礫と化した校舎を見ても、こんな田舎にしてはオシャレな作りなのです。
きっと自慢の学校だった事でしょうね!
しかし今私の目の前にある学校は壁が剥がれ、渡り廊下はねじ曲がり、床板はめくれ、
窓ガラスがなくなった窓に無惨にも残っているカーテンだけが風に揺れていました。
慰霊碑が建てられている所が校庭と判ったときには足を置くのが躊躇われ、
よく見ると砂の中に木切れやビニール片が埋まっているのです。子供たちの悲しみが埋まっているかのようでした。
校舎を背にして振り返ると杉山がありました。どうしてこの山を登らなかったのか。
と思わず声を出してしまいました。一緒に居た友達が、
「一時間も校庭に居たのに誰一人教師が子供を連れて山へ逃げようとしなかったのよ。」
「津波がここには来たことがなくて、危機感がなかったのね。
それに、校長が自分の子供の卒業式に行く為に休みだったんだって。」
最近高校教師が自分の子供の入学式に行って学校を休んだ事がニュースになっていましたが、
校長はまさか津波が来るとは思って無かったでしょうがー。
とにかくここに来て思った事は、危機管理が一人一人に出来てなかった事が一番の原因だと思いました。
子供たちを守り指導するという意識が教師に欠けていたのではないでしょうか。
正に今の日本人のそのままですね。自分を、自分の子供を、家族を、
そして国家を守るのは大人の義務であり責任ではないでしょうか。
それを教えていくことが教育ではないでしょうか。
慰霊碑にお線香を手向け、手を合わせて祭壇に目をやるとジュースが供えてありました。
「怖かったねー。もうこんな事起こさないようにするからね。」
とメモが添えられていました。
校舎の横に流れる今は穏やかになっている
美しい北上川を眺め、友人と「北上夜曲」を歌いながら帰途に就きました。w 崩田和美
学校のほかには何もなくて、どうしてこんなところに学校があるのかなと思いました。
周りには元々集落が有ってそこから学校に子供たちが通っていたのでした。
後で慰霊碑に刻まれていた写真を見て分かったのですが、それを見ていると子供たちが楽しげに通っている様子が
目に浮かぶようです。
何故なら瓦礫と化した校舎を見ても、こんな田舎にしてはオシャレな作りなのです。
きっと自慢の学校だった事でしょうね!
しかし今私の目の前にある学校は壁が剥がれ、渡り廊下はねじ曲がり、床板はめくれ、
窓ガラスがなくなった窓に無惨にも残っているカーテンだけが風に揺れていました。
慰霊碑が建てられている所が校庭と判ったときには足を置くのが躊躇われ、
よく見ると砂の中に木切れやビニール片が埋まっているのです。子供たちの悲しみが埋まっているかのようでした。
校舎を背にして振り返ると杉山がありました。どうしてこの山を登らなかったのか。
と思わず声を出してしまいました。一緒に居た友達が、
「一時間も校庭に居たのに誰一人教師が子供を連れて山へ逃げようとしなかったのよ。」
「津波がここには来たことがなくて、危機感がなかったのね。
それに、校長が自分の子供の卒業式に行く為に休みだったんだって。」
最近高校教師が自分の子供の入学式に行って学校を休んだ事がニュースになっていましたが、
校長はまさか津波が来るとは思って無かったでしょうがー。
とにかくここに来て思った事は、危機管理が一人一人に出来てなかった事が一番の原因だと思いました。
子供たちを守り指導するという意識が教師に欠けていたのではないでしょうか。
正に今の日本人のそのままですね。自分を、自分の子供を、家族を、
そして国家を守るのは大人の義務であり責任ではないでしょうか。
それを教えていくことが教育ではないでしょうか。
慰霊碑にお線香を手向け、手を合わせて祭壇に目をやるとジュースが供えてありました。
「怖かったねー。もうこんな事起こさないようにするからね。」
とメモが添えられていました。
校舎の横に流れる今は穏やかになっている
美しい北上川を眺め、友人と「北上夜曲」を歌いながら帰途に就きました。w 崩田和美
2014-04-20
2014-04-11
「がんばろう!石巻」と書かれた立て看板
4月9日に仙台に居る友人と石巻に行ってきました。
仙台から高速道路で向かいました。
彼女が 車の窓から見える景色を説明してくれるのですが
高速道路の海側は津波の被害でなにもなくなっ手いるのに、
反対側は何も無かったようにビルや家々が立ち並んでいた。
高速道路が津波の被害をくい止めたのだという。何とも皮肉なできごとでした。
石巻に着くと以前の商店街が歯が抜けたように家がなくなっていました。
震災後に魚を何度も送ってもらっていたまるかさんという魚屋さんに行きました。
それは地震と津波で冷蔵設備が駄目になって、取って来た魚保存出来ないし、
買ってくれる客もいないのでその日に取れたての魚を送ってもらっていたのです。
さんまばかりだったり、かきだったり親父さんのお任せと言うことでした。
昨年の震災特集のテレビでも放映されましたが、その御主人初めてお会いしまいした。
「その節は、どうも」
と言うことしかできなくて、、、。
感無量でした。
そこでおいしいお魚をご馳走になりました。
そして友達が見て欲しいと言って連れてきてくれたのは
「がんばろう!石巻」と書かれた立て看板
がなにもなくなった空き地に海を背にして立っていました。
そしてその前には「復興するぞ」地面に書いてありました。


関東以西ではもう忘れられていますが、まだまだこれからだ、
と云うかのように風がなにもなくなった海辺に吹いていました。
その後、私は、大川小学校へ連れて行って欲しいと頼みました。 つづく
崩田和美
仙台から高速道路で向かいました。
彼女が 車の窓から見える景色を説明してくれるのですが
高速道路の海側は津波の被害でなにもなくなっ手いるのに、
反対側は何も無かったようにビルや家々が立ち並んでいた。
高速道路が津波の被害をくい止めたのだという。何とも皮肉なできごとでした。
石巻に着くと以前の商店街が歯が抜けたように家がなくなっていました。
震災後に魚を何度も送ってもらっていたまるかさんという魚屋さんに行きました。
それは地震と津波で冷蔵設備が駄目になって、取って来た魚保存出来ないし、
買ってくれる客もいないのでその日に取れたての魚を送ってもらっていたのです。
さんまばかりだったり、かきだったり親父さんのお任せと言うことでした。
昨年の震災特集のテレビでも放映されましたが、その御主人初めてお会いしまいした。
「その節は、どうも」
と言うことしかできなくて、、、。
感無量でした。
そこでおいしいお魚をご馳走になりました。
そして友達が見て欲しいと言って連れてきてくれたのは
「がんばろう!石巻」と書かれた立て看板
がなにもなくなった空き地に海を背にして立っていました。
そしてその前には「復興するぞ」地面に書いてありました。


関東以西ではもう忘れられていますが、まだまだこれからだ、
と云うかのように風がなにもなくなった海辺に吹いていました。
その後、私は、大川小学校へ連れて行って欲しいと頼みました。 つづく
崩田和美
Powered by FC2 Blog
Copyright © 黎明教育者連盟〜「寺子屋」講師たちのつぶやき〜 All Rights Reserved.