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2013-05-07

中部・近畿神社仏閣参拝記⑤

金峯山寺・吉水神社(奈良県吉野群吉野町吉野山)

五月五日に、ユネスコの世界文化遺産として登録されている「紀伊山地の霊場と参詣道」の中に含まれる、金峯山寺と吉水神社に参拝しました。

金峯山(きんぷせん)は、奈良県の吉野山から山上ヶ岳(大峯山)に至る一体を指し、飛鳥時代から聖地として知られていました。七世紀後半(白鳳年間)、修験道を始めた役行者(えんのぎょうじゃ)が、金峯山で修行し、山上ヶ岳で、人々を迷いや苦しみから救い、悟りの世界に導くために金剛蔵王権現を祈り出されます。そして、そのお姿を山桜の木に彫刻し、山上ヶ岳と吉野山にお堂を立ててお祀りされました。これが金峯山寺の始まりになります。
因みに、役行者が蔵王権現の姿を山桜の木に彫刻したことから、吉野山では山桜がご神木として保護、献木されて、日本一の桜の名所となったそうです。

今も昔も、金峯山は修験道の中心的道場として、多くの修行者、宗教者が宗派を超えて入山修行しています。その修行は、吉野山蔵王堂から山上ヶ岳の山上蔵王堂(現在の大峯山寺)までの間、毎日休むことなく歩き、百日にわたって礼拝する「金峯山百日回峯行」、さらに、山上ヶ岳の開山期間(五月三日から九月二十二日)を八年、一千日を懸ける大行「金峯山千日回峯行」があり、千日回峯行は二名の方が成満しているそうです。

いにしえから求道の聖地である吉野。その威厳を現す仏閣でした。

現在、蔵王堂秘仏ご本尊・金剛蔵王大権現の特別拝観が六月九日まで行われています。


吉水神社のご祭神は、後醍醐天皇と楠木正成公と吉水院宗信公です。

吉水神社は元吉水院として、今から約千三百年前に役行者が創立した修験宗の僧坊でした。

歴史的には、文治元年(1185年)、源頼朝の追手に逃れた源義経と静御前は弁慶たちと共に吉水院に隠れ住まわれました。しかし、哀しくも義経と静御前が最後に過ごした場所になります。
次の静御前の歌は有名です。
吉野山 峯の白雪踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき

南北朝年間の延元元年(1336年)、京都の花山院から行幸された後醍醐天皇が吉野に御潜幸になり、吉水宗信の援護のもとに、僻地の吉水院を南朝の皇居とされました。南朝四代五十七年の歴史がここからはじめられ、現存する南朝唯一の行宮(あんぐう)となっています。
後醍醐天皇の御製
花にねて よしや吉野の吉水の 枕の下に 石走る音

安土桃山時代の文禄三年(1594年)、豊臣秀吉が吉野で盛大な花見の宴を催したとき、吉水院を本陣とし数日間滞在しました。

豊臣秀吉
年月を 心にかけし 吉野山花の盛りを 今日見つるかな

吉野は桜の名所で、吉水神社からは、「一目千本」の桜が一望できる場所があり、桜の季節には多くの観光客・参拝者で賑わいます。また書院には、歴史的な文化財・宝物が数多く展示されています。
歴史と自然を体感できる神社です。

因みに吉水神社の佐藤素心(一彦)宮司は、熱烈な愛国者、かつ温厚なお人柄で温かく参拝者を迎えて下さいます。 私の尊敬する神道家・先達です。今回も色々とお世話になりました。厚くお礼申し上げます。

皆様、拙い参拝記をお読み頂き誠にありがとうございました。お時間が許せば、是非各地の神社や仏閣を訪れてみては如何でしょうか。きっと日本の精神文化の深さに感動することでしょう。
柴田

1・2・3金峯山寺仁王門(国宝)
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4・5蔵王堂 (国宝)

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6吉水神社本社
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7書院
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8北けつ門(後醍醐天皇が京都に向かって祈られた場所)
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9一目千本
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2013-05-07

「歴史の目」意識しての改正こそ

本日付産経新聞「正論『国民の憲法』考」に、文芸評論家新保祐司氏の『「歴史の目」意識しての改正こそ』と題した秀逸な論考が掲載されていたので、その論旨に付随した見解を述べてみたいと思う。

新保氏は、国立公文書館で開催された「近代国家日本の登場-公文書にみる明治」を見に行かれた時、「特に大日本帝国憲法の前でしばらく佇んで」、次の様な感想を述べておられた。

「歴史的な文書を見ているというよりも、逆に歴史の方から見られているような強い感じに襲われた。それに比べて、会場の外に、所蔵文書の一つとして展示されていた現行憲法からは、そのような歴史の持っている重みのようなものはほとんど感じられなかった。『明治の精神』が自力でつくりあげた気迫の憲法と『配給された』憲法との違いというものを目に見える形で実感したことであった。
憲法改正にあたって何よりも必要なのは、日本の歴史から見られているという意識の下で、改正作業を進めることであろう。」

全く同感である。

更に現行憲法96条改正にあたっては、「ますますこの歴史感覚は重要になるのである。」という指摘は、現今の「歴史感覚」が不足気味の改正論議に、鋭く問題提起していると言えよう。
まさに「発議する国会議員と国民投票をする国民には、日本の歴史に見られているという歴史感覚を身につけていることが、絶対に必要になってくる」のである。ならば、戦後教育によって、どっぷり戦後民主主義の価値観に染まった国民(人民・大衆)が多数の今日においては、遠回りだが、まず戦後の価値観を問い直し、『歴史感覚』を取り戻す思想的かつ教育的な作業が、憲法論議の中で、あるいはそれと並行して行われる必要があろう。

一方新保氏は、「今日の日本の政治状況の中で憲法を改正するとなれば、『3分の2以上』というのが現実的ではないのは間違いなく、『過半数』にハードルを下げるのは当然であろう」とのべるが、厳密にいえば、現行憲法96条改正より、まずは出席議員の『過半数』による現行憲法『無効』確認(大日本帝国憲法現存確認)の方がより『歴史感覚』に立脚した手続きと言えると思うが如何であろうか。

また新保氏は、民俗学者柳田国男の言説を引用しつつ、次の様な見解を述べる。
「『2分の1+1』の住民が、単に今日的『利益』の必要や現代的価値観によって、改正してはならない。何故なら『我々は既に土に帰したる数千億万人の同胞』の歴史に規制されているからである。」

このことは、『歴史感覚』なき民による『2分の1+1(過半数)』への現行憲法96条改正への警鐘と批判、つまり現今の「改正論」批判にもなっている。

またこの指摘は、現行憲法無効確認宣言を選択するにあっても留意すべき点であると筆者は考える。なぜなら現行憲法の無効(あるいは廃棄)は、大日本帝国憲法復元改正へと結び付かなければ、「歴史感覚」の回復にならないと思うからである。
さらに、仮に帝国憲法を復元したとしても、帝国憲法の正当な評価を、ある程度国民の共通の認識にする必要がある。そのためには、帝国憲法を復元して、国民教育を施す必要がある。
それがもし性急な印象を受けるのであれば、現行憲法を、現存する帝国憲法(正統憲法、歴史・伝統・国体)に基づき、保守的解釈で運用し、その事実を積み重ねるべきであろう。その上でわが国の憲法・国体を『発見』し、国民共通の価値観とすべきであろう。

筆者が、本稿で最も注目する指摘は、新保氏が「五箇条の御誓文を思わす前文を」と提起していることである。

「改正憲法の前文では、五箇条の御誓文と大日本帝国憲法に言及する一方、現行憲法には敢えて触れず、改正憲法が明治維新(これはまた神武創業の想起であった)以来の歴史の王道に基づいて示すべきである。」
そうであれば尚更、現行憲法無効確認・大日本帝国憲法復元改正こそが『憲法改正の王道』と言えるでのではないか。
付言すれば、五箇条の御誓文も、大日本帝国憲法も、明治天皇が、皇祖皇宗に誓う儀式を踏まえ、発布されたものである。もし帝国憲法復元改正でなく、新憲法を成立させるのであれば、天皇陛下による祭祀に立脚した『告文』『上諭』を載せる形式を採るべきであろう。そうすることで、『祭祀の国・天皇国日本』に相応しい「格調」高い憲法となるといえるのではないだろうか。

柴田
プロフィール

黎明教育者連盟

Author:黎明教育者連盟
黎明(れいめい)教育者連盟は皇室を敬い、伝統文化を守り、戦後の誤れる教育を正し、­日本の再興を子供の教育から目指す教育団体です。
小学生向けの「寺子屋」や、親子参加型の「親子寺子屋」「乳幼児寺子屋」などを中心に、絵画­教室、書道教室、礼法教室、着物教室、歴史講座、古事記勉強会、童謡・唱歌わらべ歌の­­­会、子育て相談などを運営しています。現代の興廃した教育環境の中で、自分の子供­にはどんな教育をしたらいいか、お悩みではありませんか。日本人として誇りの持てる人­生­を­お子様には歩んでほしいものです。どなたでも参加出来ます。ぜひお気軽にお問­い合わせ下さい。
http://reimei-kyoren.com

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