2013-04-27
廃憲論の是非
4月26日付の産経新聞に軍事評論家の兵藤二十八氏(占領憲法廃憲論者)と京都大学名誉教授の中西輝政氏(占領憲法改正論者)のそれぞれの見解が併記されていた。
筆者は、兵藤氏の見解を概ね評価し、中西氏の見解を中心にここでは論評を加えたいと思う。
中西氏は、憲法無効論について「国際法的に根拠があり、その論理からいえば憲法無効論は正当だと認めていいだろう。法律と歴史を学んだ人間として、現憲法廃棄は筋の通った議論だと認めたい。」と一定の評価を下している。
ただ占領憲法無効論の認識について、以下の矛盾と誤解があるように思う。
①同じ戦後の国際秩序下であるにもかかわらず、占領終了直後の無効宣言に評価を加え、今日の廃憲論(無効論)では『戦後の国際秩序を否認したと受けとられる』と解釈している点。
中西氏の論旨に一貫性を持たせるならば、占領終了後の無効宣言であれ、現在のものであれ、『戦後の国際秩序』の『否認と受けとられる』とすべきでないか。「連合軍による占領が終わった直後なら、憲法の不成立や無効を宣言決議すれば十分だった」のは何故なのか。むしろ占領後すぐの方が、戦争が間近であった分、『戦後の国際秩序の否認』と受け取られやすいとも言えるのではないか?
ところで、そもそも『戦後の国際秩序』は妥当性があるものなのだろうか。例えば「東京裁判史観」批判の本質は、不公正な『戦後の国際秩序』への意義申し立てであろう。国際社会に公正な法的正当性を確立することが、国際平和への道筋といえよう。パール判事の立論もそこにある。偏狭なナショナリズムでなく、公正な法秩序の確立に基づく『戦後の国際秩序』の超克が今日の国際社会に求められているのではないだろうか。東京裁判史観批判と表裏一体とも言える占領憲法無効論にはそうした思想課題もあると考えるのは牽強付会の見方だろうか。
②現行憲法廃棄(無効)が政治的・法的安定性を損ねるという誤解
これは旧来の無効論ではある面当てはまるかもしれないが、現行憲法を明治憲法体制下の『講和条約(憲法的講和条約)』と位置付ける南出喜久治氏の新無効論(真正護憲論)の場合には必ずしも当てはまらない。新無効論(真正護憲論)は、国民の認識をまず転換し、『正統憲法』秩序に、現行の法制度を徐々に整えるもので、「法的クーデター」を目指すものではない。
中西氏は英国で国際政治・国際関係史を学んでおられる大家だが、近代憲法典のない英国は、マグナカルタ(1215年)や権利章典(1689年)などを含めて憲法(国体)と認識しているはずである。更にいえば、エドワード・コークなどが確立した英米の『法の支配』・『コモン・ロー(慣習法)』の観点からすれば、国体に立脚しない「悪法」は『無効』であるとみなされる解釈も成り立つであろう。
ならば、英米より古い国体を持つわが国が、神話・詔勅・慣習などから明治憲法に至る歴史的な『法』を『正統憲法』として解釈して、現行憲法を『憲法』として『無効』としても、必ずしも国際的不信を招くことに即繋がらないと思う。むしろ国内外に『法』秩序や『法理(道理)』を守る事を明確にした方が、国際的な信用を得る契機となると思うが如何だろうか。
また気になるのは、「2代の天皇がこの憲法下で在位して来られた事実も無効となれば、天皇の地位が揺らぐことにもなりかねない」と述べておられることである。天皇の地位と即位は現行憲法(占領憲法)に基づくものではない。天壌無窮のご神勅と万世一系の歴史と伝統、つまり『国体(正統憲法)』によるのである。現行憲法を「国民主権」に基づいて「改正(改悪?)」する方が、天皇の地位を危うくするというべきだろう。
以上、拙い論を述べさせて頂いたが、改正論であれ、無効論であれ、憲法論議を通じて日本の国柄が明確になれば喜ばしい限りである。さらなる議論の深化を期待したい。
付記
兵藤氏の「廃憲論」は改めて後日論じたいと思う。
柴田
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