2022-08-21
『国葬』と「国葬儀」 について
『国葬』と「国葬儀」 について
安倍晋三元首相が去る七月八日奈良の大和西大寺で凶弾にあわれて逝去されました。
改めて追悼の誠を捧げ、慎んでご冥福をお祈り申し上げます。
諸外国の要人からお悔やみの言葉が相継ぎ、安倍元首相の所謂「国葬(正確には国葬儀)」が政府により決定されましたが、その法的根拠は内閣府設置法第四条三項三十三「国の儀式並びに内閣の行う儀式及び行事に関する事務に関すること(他省の所掌に属するものを除く。)」によるものだとされています。
率直に言って具体性に乏しい無味乾燥な条文ではないでしょうか。
そもそも現行(占領)法制下で果たして『国葬』が出来るのでしょうか。
戦前にあっては正統典憲体制下、勅令である『国葬令』によって、『国葬』は原則 天皇・皇族であること、皇族では無い者の『国葬』は 天皇陛下の勅裁が必要でありました。
占領期に『国葬令』は失効させられましたが、国(政府)が葬儀を行う基準は全うな国家であれば、明確にして置くべきでしょう。
もし『国葬』を執り行いたいのであれば、日本の國體・国柄を尊重し回復する観点から、本来は占領憲法無効・帝国憲法の現存確認宣言を首相が発して、『国葬令』を回復したのち、天皇陛下の勅裁のもとで、安倍元首相の『国葬』を決定するのが筋ではないでしょうか。
或いは慣習法の観点から勅裁を得て執り行うべきではなかったかと考えます。
それが『日本を取り戻す』とスローガンに掲げた安倍首相の御心に叶うことでもあると拝察します。
国葬に関してもうひとつ論点を敢えて提示すれば、天皇陛下、上皇陛下を始めとする皇族方の御葬儀をどの様に法的に位置付けるのかということも検討しておく必要を感じます。
戦前の『国葬令』では、第一条「大喪儀ハ國葬トス」とあり、天皇陛下の御葬儀は『国葬』と明確でしたが、現行(占領)典憲下では、 天皇陛下が崩御されたときには、現行(占領)皇室典範第二十五条「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」、天皇の退位等による皇室典範特例法第三条三(所謂「退位特例法」)では、「 上皇の身分に関する事項の登録、喪儀及び陵墓については、天皇の例による。」とあるだけで、天皇陛下・上皇陛下の御葬儀は必ずしもすべて『国葬』であるとは言い難い状況であることは認識しておかなければなりません。
昭和天皇の御大喪の際には、現行(占領)憲法第二十条の政教分離を、完全分離の解釈により、宗教性のある「大喪儀」が皇室行事、「大喪の礼」が国事と区分けされ、移動式の鳥居を使ってその区別を行うという前代未聞のお粗末なものでした。
不謹慎かもしれませんが、上皇陛下が仮に崩御あそばされた際にも、前列を踏襲することになるのでしょうか。
正当な独立した法治国家として、正統典憲を復元して、『国葬令』を始めとする勅令や宮務法体系を回復することで、国事としての儀式が厳粛な雰囲氣のもと斎行されることを切望するものです。
《参考》国葬令(1926年・大正15年10月21日制定。1947年12月31日失効。)
第一條 大喪儀ハ國葬トス
第二條 皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃及攝政タル親王内親王王女王ノ喪儀ハ國葬トス但シ皇太子皇太孫七歳未満ノ殤ナルトキハ此ノ限ニ在ラス
第三條 國家ニ偉功アル者薨去又ハ死亡シタルトキハ特旨ニ依リ國葬ヲ賜フコトアルヘシ
前項ノ特旨ハ勅書ヲ以テシ内閣總理大臣之ヲ公告ス
第四條 皇族ニ非サル者國葬ノ場合ニ於テハ喪儀ヲ行フ当日廢朝シ國民喪ヲ服ス
第五條 皇族ニ非サル者國葬ノ場合ニ於テハ喪儀ノ式ハ内閣總理大臣勅裁ヲ経テ之ヲ定ム
安倍晋三元首相が去る七月八日奈良の大和西大寺で凶弾にあわれて逝去されました。
改めて追悼の誠を捧げ、慎んでご冥福をお祈り申し上げます。
諸外国の要人からお悔やみの言葉が相継ぎ、安倍元首相の所謂「国葬(正確には国葬儀)」が政府により決定されましたが、その法的根拠は内閣府設置法第四条三項三十三「国の儀式並びに内閣の行う儀式及び行事に関する事務に関すること(他省の所掌に属するものを除く。)」によるものだとされています。
率直に言って具体性に乏しい無味乾燥な条文ではないでしょうか。
そもそも現行(占領)法制下で果たして『国葬』が出来るのでしょうか。
戦前にあっては正統典憲体制下、勅令である『国葬令』によって、『国葬』は原則 天皇・皇族であること、皇族では無い者の『国葬』は 天皇陛下の勅裁が必要でありました。
占領期に『国葬令』は失効させられましたが、国(政府)が葬儀を行う基準は全うな国家であれば、明確にして置くべきでしょう。
もし『国葬』を執り行いたいのであれば、日本の國體・国柄を尊重し回復する観点から、本来は占領憲法無効・帝国憲法の現存確認宣言を首相が発して、『国葬令』を回復したのち、天皇陛下の勅裁のもとで、安倍元首相の『国葬』を決定するのが筋ではないでしょうか。
或いは慣習法の観点から勅裁を得て執り行うべきではなかったかと考えます。
それが『日本を取り戻す』とスローガンに掲げた安倍首相の御心に叶うことでもあると拝察します。
国葬に関してもうひとつ論点を敢えて提示すれば、天皇陛下、上皇陛下を始めとする皇族方の御葬儀をどの様に法的に位置付けるのかということも検討しておく必要を感じます。
戦前の『国葬令』では、第一条「大喪儀ハ國葬トス」とあり、天皇陛下の御葬儀は『国葬』と明確でしたが、現行(占領)典憲下では、 天皇陛下が崩御されたときには、現行(占領)皇室典範第二十五条「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」、天皇の退位等による皇室典範特例法第三条三(所謂「退位特例法」)では、「 上皇の身分に関する事項の登録、喪儀及び陵墓については、天皇の例による。」とあるだけで、天皇陛下・上皇陛下の御葬儀は必ずしもすべて『国葬』であるとは言い難い状況であることは認識しておかなければなりません。
昭和天皇の御大喪の際には、現行(占領)憲法第二十条の政教分離を、完全分離の解釈により、宗教性のある「大喪儀」が皇室行事、「大喪の礼」が国事と区分けされ、移動式の鳥居を使ってその区別を行うという前代未聞のお粗末なものでした。
不謹慎かもしれませんが、上皇陛下が仮に崩御あそばされた際にも、前列を踏襲することになるのでしょうか。
正当な独立した法治国家として、正統典憲を復元して、『国葬令』を始めとする勅令や宮務法体系を回復することで、国事としての儀式が厳粛な雰囲氣のもと斎行されることを切望するものです。
《参考》国葬令(1926年・大正15年10月21日制定。1947年12月31日失効。)
第一條 大喪儀ハ國葬トス
第二條 皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃及攝政タル親王内親王王女王ノ喪儀ハ國葬トス但シ皇太子皇太孫七歳未満ノ殤ナルトキハ此ノ限ニ在ラス
第三條 國家ニ偉功アル者薨去又ハ死亡シタルトキハ特旨ニ依リ國葬ヲ賜フコトアルヘシ
前項ノ特旨ハ勅書ヲ以テシ内閣總理大臣之ヲ公告ス
第四條 皇族ニ非サル者國葬ノ場合ニ於テハ喪儀ヲ行フ当日廢朝シ國民喪ヲ服ス
第五條 皇族ニ非サル者國葬ノ場合ニ於テハ喪儀ノ式ハ内閣總理大臣勅裁ヲ経テ之ヲ定ム
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2014-04-20
「がんばろう!石巻」つづき
大川小学校は石巻市街地から車で20分程内陸へは入った北上川の上流のそばにありました。
学校のほかには何もなくて、どうしてこんなところに学校があるのかなと思いました。
周りには元々集落が有ってそこから学校に子供たちが通っていたのでした。
後で慰霊碑に刻まれていた写真を見て分かったのですが、それを見ていると子供たちが楽しげに通っている様子が
目に浮かぶようです。
何故なら瓦礫と化した校舎を見ても、こんな田舎にしてはオシャレな作りなのです。
きっと自慢の学校だった事でしょうね!
しかし今私の目の前にある学校は壁が剥がれ、渡り廊下はねじ曲がり、床板はめくれ、
窓ガラスがなくなった窓に無惨にも残っているカーテンだけが風に揺れていました。
慰霊碑が建てられている所が校庭と判ったときには足を置くのが躊躇われ、
よく見ると砂の中に木切れやビニール片が埋まっているのです。子供たちの悲しみが埋まっているかのようでした。
校舎を背にして振り返ると杉山がありました。どうしてこの山を登らなかったのか。
と思わず声を出してしまいました。一緒に居た友達が、
「一時間も校庭に居たのに誰一人教師が子供を連れて山へ逃げようとしなかったのよ。」
「津波がここには来たことがなくて、危機感がなかったのね。
それに、校長が自分の子供の卒業式に行く為に休みだったんだって。」
最近高校教師が自分の子供の入学式に行って学校を休んだ事がニュースになっていましたが、
校長はまさか津波が来るとは思って無かったでしょうがー。
とにかくここに来て思った事は、危機管理が一人一人に出来てなかった事が一番の原因だと思いました。
子供たちを守り指導するという意識が教師に欠けていたのではないでしょうか。
正に今の日本人のそのままですね。自分を、自分の子供を、家族を、
そして国家を守るのは大人の義務であり責任ではないでしょうか。
それを教えていくことが教育ではないでしょうか。
慰霊碑にお線香を手向け、手を合わせて祭壇に目をやるとジュースが供えてありました。
「怖かったねー。もうこんな事起こさないようにするからね。」
とメモが添えられていました。
校舎の横に流れる今は穏やかになっている
美しい北上川を眺め、友人と「北上夜曲」を歌いながら帰途に就きました。w 崩田和美
学校のほかには何もなくて、どうしてこんなところに学校があるのかなと思いました。
周りには元々集落が有ってそこから学校に子供たちが通っていたのでした。
後で慰霊碑に刻まれていた写真を見て分かったのですが、それを見ていると子供たちが楽しげに通っている様子が
目に浮かぶようです。
何故なら瓦礫と化した校舎を見ても、こんな田舎にしてはオシャレな作りなのです。
きっと自慢の学校だった事でしょうね!
しかし今私の目の前にある学校は壁が剥がれ、渡り廊下はねじ曲がり、床板はめくれ、
窓ガラスがなくなった窓に無惨にも残っているカーテンだけが風に揺れていました。
慰霊碑が建てられている所が校庭と判ったときには足を置くのが躊躇われ、
よく見ると砂の中に木切れやビニール片が埋まっているのです。子供たちの悲しみが埋まっているかのようでした。
校舎を背にして振り返ると杉山がありました。どうしてこの山を登らなかったのか。
と思わず声を出してしまいました。一緒に居た友達が、
「一時間も校庭に居たのに誰一人教師が子供を連れて山へ逃げようとしなかったのよ。」
「津波がここには来たことがなくて、危機感がなかったのね。
それに、校長が自分の子供の卒業式に行く為に休みだったんだって。」
最近高校教師が自分の子供の入学式に行って学校を休んだ事がニュースになっていましたが、
校長はまさか津波が来るとは思って無かったでしょうがー。
とにかくここに来て思った事は、危機管理が一人一人に出来てなかった事が一番の原因だと思いました。
子供たちを守り指導するという意識が教師に欠けていたのではないでしょうか。
正に今の日本人のそのままですね。自分を、自分の子供を、家族を、
そして国家を守るのは大人の義務であり責任ではないでしょうか。
それを教えていくことが教育ではないでしょうか。
慰霊碑にお線香を手向け、手を合わせて祭壇に目をやるとジュースが供えてありました。
「怖かったねー。もうこんな事起こさないようにするからね。」
とメモが添えられていました。
校舎の横に流れる今は穏やかになっている
美しい北上川を眺め、友人と「北上夜曲」を歌いながら帰途に就きました。w 崩田和美
2014-04-11
「がんばろう!石巻」と書かれた立て看板
4月9日に仙台に居る友人と石巻に行ってきました。
仙台から高速道路で向かいました。
彼女が 車の窓から見える景色を説明してくれるのですが
高速道路の海側は津波の被害でなにもなくなっ手いるのに、
反対側は何も無かったようにビルや家々が立ち並んでいた。
高速道路が津波の被害をくい止めたのだという。何とも皮肉なできごとでした。
石巻に着くと以前の商店街が歯が抜けたように家がなくなっていました。
震災後に魚を何度も送ってもらっていたまるかさんという魚屋さんに行きました。
それは地震と津波で冷蔵設備が駄目になって、取って来た魚保存出来ないし、
買ってくれる客もいないのでその日に取れたての魚を送ってもらっていたのです。
さんまばかりだったり、かきだったり親父さんのお任せと言うことでした。
昨年の震災特集のテレビでも放映されましたが、その御主人初めてお会いしまいした。
「その節は、どうも」
と言うことしかできなくて、、、。
感無量でした。
そこでおいしいお魚をご馳走になりました。
そして友達が見て欲しいと言って連れてきてくれたのは
「がんばろう!石巻」と書かれた立て看板
がなにもなくなった空き地に海を背にして立っていました。
そしてその前には「復興するぞ」地面に書いてありました。


関東以西ではもう忘れられていますが、まだまだこれからだ、
と云うかのように風がなにもなくなった海辺に吹いていました。
その後、私は、大川小学校へ連れて行って欲しいと頼みました。 つづく
崩田和美
仙台から高速道路で向かいました。
彼女が 車の窓から見える景色を説明してくれるのですが
高速道路の海側は津波の被害でなにもなくなっ手いるのに、
反対側は何も無かったようにビルや家々が立ち並んでいた。
高速道路が津波の被害をくい止めたのだという。何とも皮肉なできごとでした。
石巻に着くと以前の商店街が歯が抜けたように家がなくなっていました。
震災後に魚を何度も送ってもらっていたまるかさんという魚屋さんに行きました。
それは地震と津波で冷蔵設備が駄目になって、取って来た魚保存出来ないし、
買ってくれる客もいないのでその日に取れたての魚を送ってもらっていたのです。
さんまばかりだったり、かきだったり親父さんのお任せと言うことでした。
昨年の震災特集のテレビでも放映されましたが、その御主人初めてお会いしまいした。
「その節は、どうも」
と言うことしかできなくて、、、。
感無量でした。
そこでおいしいお魚をご馳走になりました。
そして友達が見て欲しいと言って連れてきてくれたのは
「がんばろう!石巻」と書かれた立て看板
がなにもなくなった空き地に海を背にして立っていました。
そしてその前には「復興するぞ」地面に書いてありました。


関東以西ではもう忘れられていますが、まだまだこれからだ、
と云うかのように風がなにもなくなった海辺に吹いていました。
その後、私は、大川小学校へ連れて行って欲しいと頼みました。 つづく
崩田和美
2014-03-22
卒業式には「仰げば尊し」を歌いましょう。
3月21日付けの産経新聞の正論欄に、文芸評論家新保祐司氏の「明治の心で蘇った『仰げば尊し』」という題名の秀逸な論稿が載っていました。
(http://sankei.jp.msn.com/life/news/140321/trd14032103400001-n1.htm)
今年の2月に『仰げば尊しのすべて』というCDが発売されたそうで、その解説書の執筆者の御一人である皇学館高校教諭の田中克己氏によると、「卒業式には、現在では全国的にみると小学校で11・1%、中学校で25・4%しか歌われていない。音楽教科書には、掲載率は100%に近いのだが、本来3番まである唱歌なのに『互(たがい)に睦(むつみ)し』から始まる2番の歌詞が削除されている教科書が、昭和50年代から加速度的に増え、最近では100%に近い」ということだそうです。特に2番の歌詞が省略される理由ついて、田中氏は「各発行者から『立身出世と解釈できる場合があり時勢にそぐわないとのご意見が教育現場を中心に数多くよせられた』といった回答を得た」と指摘されておられるそうです。
明治の文人斎藤緑雨の言葉の通り、「教育の普及は浮薄の普及なり」を実践しているのが、戦後教育の在り様なのでしょう。
「立身出世」を図ることを一概に否定することはありません。そもそも「志」や「夢」を抱いて「公」に尽し「身を立て名をあげ 励む」ことは正当に評価されるべきことです。
『仰げば尊し』を否定した日教組の戦後教育は、「平等」の名のもとに、仰ぐべき尊き師の存在を否定し教師は「労働者」と化してしまいましたし、「国家」を否定した結果、己の利益を優先する人間を数多く育てることになってしまいました。こうした風潮に対して反省が迫られていると思います。
さらに新保氏は、『仰げば尊し』の2番は、表面的な「立身出世」の掛け声でなく、『やよ』という言葉の奥に込められた明治日本の『うらわかきかなしき力』からの声であると指摘され、「近代日本の『うらわかきかなしき力』の歴史を思い出すためにも、また改正教育基本法にある我国の文化と伝統の尊重のためにも、この唱歌は歌い継がれなければならないであろう」と結語されておられます。その通りだと思います。
現代の卒業ソングも悪くはないのでしょうが、日本人として世代を超えた共有感覚や先人の方々の想いを継承するためにも、学校の卒業式には堂々と『仰げば尊し』を歌いたいものです。最後に「仰げば尊し」の詩と合唱をご紹介しておきます。
〔仰げば尊し〕
詞
1. 仰げば 尊し 我が師の恩
教(おしえ)の庭にも はや幾年(いくとせ)
思えば いと疾(と)し この年月(としつき)
今こそ 別れめ いざさらば
2. 互(たがい)に睦(むつみ)し 日ごろの恩
別(わか)るる後(のち)にも やよ 忘るな
身を立て 名をあげ やよ 励めよ
今こそ 別れめ いざさらば
3. 朝夕 馴(な)れにし 学びの窓
蛍の灯火(ともしび) 積む白雪(しらゆき)
忘るる 間(ま)ぞなき ゆく年月
今こそ 別れめ いざさらば
・東京ソフィア合唱団 『仰げば尊し』
http://www.youtube.com/watch?v=2nRWdXcT7g0
・福島県郡山市立郡山第二中学校卒業式 『仰げば尊し』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20231569
2014-03-11
震災から3年
被害者の方々のご冥福を心よりお祈り致します。
人の生き死には神さまに委ねられていると感じます。
生かされた我々は、どこまでも誠を尽くす事だと思います。
何の為に生かされたのか、何の為に生まれたのか、何の為にそれをするのか。
これからの近い将来へ向け、日本人の真価が問われていると思うのです。
夜明け前ほど暗いのですよね。
惟神の道を歩みましょう!
實吉
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